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暗黙知と問題解決

覚え書き

 先週の続きを書こうとしたのですが,三週続くと飽きるので急遽話題を変えることにしました.そこで本日は「暗黙知」について解説します.元々は3年ほど前のJMPer’s Meetingで発表した際の配布資料で,(ページ数の制約から最終的に原稿からカットしましたが)『統計的問題解決入門』の第5講のオリジナル原稿の一部にもなっていました.それに少し修正を加えて以下に掲載します.

暗黙知という言葉をご存知でしょうか?どこかで聞いたことあるという方も多いかと思います.「大事なことは言葉では表せない」というようなコンテクストで使われることが今の日本では一般的で,以心伝心とか拈華微笑などとも同意です.因みに,拈華微笑とは,金波羅華の花を拈って見せたお釈迦様に,十大弟子の一人の大迦葉だけがにっこりと微笑んだという説話からきていて,これによりお釈迦様は大迦葉に仏教の真髄が伝わったことを知るわけです.このような話が不言実行を美徳とする日本人のベースにあったのでしょう,経営学者の野中郁次郎先生が,野中郁次郎『知識創造企業』東洋経済新報社で徒弟制度の伝統に由来するノウハウ的な知識の存在を日本的経営の強みとして世界に紹介したとき,それは直ちに日本で流行したのです.その際,この「言葉に表せない知識」を暗黙知と名付けたたことから混迷が始まります.なぜならば,暗黙知とはもともとハンガリーの物理科学者マイケル・ポランニーのTacit knowingの訳語として使われており,両者は全く異なった概念であるからです.
試みに,Googleで暗黙知を検索した最初の3ページの結果を下表に示します.(3年前の結果です.)
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この表で並記としているのは,Wikiやコトバンクのような辞書系のページが多く,その他とあるのは,暗黙知の中身には触れていないAmazonのページです.斜め読みですので判別の間違いはあるかもしれませんが,概ね日本では野中先生の暗黙知が主流になっているようです.この中にはポランニーを参照しながら,その説明は野中先生の暗黙知であったりする,やっかいな解説もありました.野中先生の暗黙知がこれだけ広まってしまった以上,私はポランニーの暗黙知は強いて訳さずTacit knowingと英語のままにするのがよいように思いますが,わたしとしては暗黙知という語感が好きなので,ポランニーの暗黙知として今後も使い続けていくつもりです.
それでは,ポランニーの暗黙知とはどういうものでしょうか?実は,これがなかなか説明しにくい概念なのです.実際.マイケル・ポランニー,高橋勇夫訳『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫を読んでも「暗黙知とは~である」とははっきりとは書かれていないので,読んでいてもどかしさを感じます.もともと,1962年のイェール大学における講義を元にして書かれているというだけあって,哲学書というほどではありませんが,やや難解な本ではあります.暗黙知についての解説はわたしの能力を超えていますが,「暗黙知の次元」に出てくる煉瓦職人の例を私なりに以下に解説してみます.
ここに一人のレンガ職人がいて,日夜良いレンガを作ろうと様々な工夫を凝らし,職人としての腕を磨いているとしましょう.彼にとっての良いレンガとは,耐久性に優れた丈夫で安価なレンガであって,そのためにレンガの製造工程では工業技術的原則や彼の経験による原則の制約を受けています.このレンガが何に使われるかに視点を移すと,そこにはこのレンガを使って良い家を建てようとしている建築家がいます.良い家とは,安全性,居住性を兼ね備えたものであり,そのため建築プロセスは建築学で記述されている原則に支配されています.更にこの家の集合体としての街に視点を移すと,そこにも良い街を作ろうとしている都市設計家がいて,やはり都市設計として従うべき原則に支配されています.一方,レンガ職人の下位に視点を移せば,そこにはレンガの材料を供給する会社の技術者がいて,その製造プロセスは物理学や化学の原理に支配されています.以上の記述を表にまとめておきます.
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ここで,この階層システムに次の法則が成り立っていることがわかります.
1. それぞれの階層は次の二重の原理に支配される.
a) 各階層の諸要素それ自体の原理
b) 各階層の諸要素によって形成される包括的な存在を支配する原理
2. 下位のシステムはすぐ上のシステムに制限を課す.
3. 直下のシステムが上位システムの支配を免れるとその上位システムは機能しない
4. 下位システムの諸要素を支配する原理によって,より上位システムの原理を表すことはできない.
包括的な存在とは,下位システムから見て上位システムを包含したシステムのことです.これが『問題解決入門』で包括システムと呼んでいるものの正体です.ここには,物理,化学だけでは住み良い街は設計できないという,要素還元主義に対する批判があり,もともとポランニーの議論はそこを目的としていたようです.この議論の過程で,このような階層性こそがシステムの本質であり,この一連の階層性の中で順々に上位のシステムに至る人間の知の動的プロセスを発見したポランニーは,それを暗黙知と呼んだのです.即ち,ポランニーの暗黙知とは,次々と新しく高次のレベルの認知が形成されていくという一連の進化のダイナミズムであって,「言葉にできないものの知ることができる」という人間の生得的な認知能力なのです.

暗黙知の議論にはそこから生成される創発という現象が大変重要です.わたしは創発こそイノベーションへの鍵と考えています.創発についての話は次週とさせてください.

また台風が近づいていますね.皆様もご用心ください.

それではまた.

統計的問題解決研究所

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