僕とサブローちゃんが統計の本になりました!

人喰いの大鷲トリコ称賛漫画:アバタもトリコ

哺乳動物の体に翼のついた不思議な動物。これを「大鷲です」と言い切るのが印象的で『人喰いの大鷲トリコ』の発売をずっと待っていた。ついに手許に来た時には、長く待ちすぎ、期待が膨らみすぎて失望するのではないかと、起動を躊躇うほど待ったのだった。

初めて会ったトリコは、目がピンクに光っていた。痛そうだからと槍を抜いてやれば思い切り蹴っ飛ばしてくるし、人喰いというからには恩ある自分は食べなくても他の人を食べるのか、などと、僕は腰が引けていた。しばらくは狭い廊下で後を追ってきたトリコの大きな顔がニョキッと飛び出してくると普通にギョッとしたものだった。

それが、いつからだろう。可愛くて愛しくてたまらなくなったのは。水が怖い、目が怖いビビリなトリコ。それでも僕が捕まっていると勇気をふりしぼって飛んできてくれる。撫でているとイビキをかいて眠ってしまう。僕が背中にいるのにお構いなしに思い切り水浴びする。話しかけると耳をハタハタさせて一生懸命聞いて、返事をしてくれる、可愛いトリコ。正直、見た目は怖いと思っていたのに、その見た目さえ、可愛いとしか見えなくなる。愛情で結ばれている時、美醜の基準など意味がなくなるのだということを身を以て感じられるように、敢えてとっつきにくい外見にしたのかもしれない。

さて、信頼と愛情で結ばれているトリコとの冒険は、とても楽しい。だが、それだけではなく、ゲームプレイそのものも、テンポがよく楽しい冒険を妨げず、ユーザーが話に没頭できるよう、細心の注意を払って設計され、いくつもの大胆な決断がなされていることに、ほどなく気づく。

一つには、トリコや少年の体力やスタミナゲージなどが思い切って排除されている。トリコは圧倒的な体格差がある鎧相手に、ちゃんと圧倒的に強い。トリコがあの体躯なのに小さな鎧相手にちまちま削られて倒れたり、押したり引いたりしてスタミナの管理をしなければ負けたりする、ありがちなゲームデザインだったとしたら、すぐに作業化して、こんなにも冒険に、不思議な体験そのものにのめり込めないだろう。それどころか、ゲームバランスによっては投げ出すかもしれない。強大な敵に挑む困難さを楽しむワンダと、冒険に身を委ねるトリコとで、割り切ったメリハリがつけてある。このようなビジョンの確かさは、上田氏自身がGTAを相当やり込んだゲーマーであることと無関係ではあるまい。ポータルナイツの制作者もゼルダの最新作ブレスオブザワイルドをすごくやった、と言っていた。やはりゲームが好きな人が作るゲームが楽しい。ゲーマー視点で隅々まで行き届いているからだろう。

トリコの運動能力が、思い切りよく高い。人間である自分からは想像もできないほど高い。トリコに乗って段差を越えるくらいは想定内だし、他のゲームでも似たような経験をしたことがある。が、人間の僕の視界にさえ入っていない高い足場にズオッというあり得ない加速感を持って軽々と飛び上がった時、その異次元の体験と臨場感に鳥肌が立った。VRでもないのに、本当に一緒に跳んだ気がしたのは、丁寧に仕上げられて統一感のある背景の美しさや質感、物理計算やキャラクターアニメーションの適切さによる説得力と、出しゃばらず常に適切で状況に応じてダイナミックに変化する音楽、育んできたトリコとの信頼と愛情による感情移入のなせる技だろうか。

どこを見ても美しいウカイヤのグラフィックスは素晴らしい。マシンの性能が上がって写実的な3DCGはゲームでは珍しくなくなったが、リアルにすれば必ず美しいというわけではない。それは、フォトリアルなゲームのトレイラーを幾つか見ればすぐにわかるだろう。デタラメに要素を詰め込んでも、ガチャガチャとした色の洪水になるだけだ。誰か優れたアートディレクターが色彩を管理して統一感のあるものに仕上げなければならない。モンハンにゲラルト参入、と聞いてやろうかな、と思ったが風景が無理だった。

それから音楽。これはゲーム音楽として最高峰だと思っている。これを越えるとしたら、同じ作曲家が次の作品を手がける時ではないだろうか。音楽そのものとしても、ゲーム音楽としての柔軟さも、これほどのものを他に知らない。フルオーケストラならではの息吹のある演奏なのに、ピンチになると滑らかに構成や曲想が変わっている。トリコが飛んできてくれて、これで勝てる!と思ったところ、いつの間にか抑えた弦楽器の伴奏になっていて、目玉の盾が持ち込まれたことがわかったりする。木管楽器の使い方がとても印象的だ。それまでも音楽いいなとは思っていたが、初めて鎧が出てきた時の音楽にシビれて、一層聞き耳をたてるようになった。バスクラとか渋すぎる。戦闘になるとオーボエがエキゾチックな歌を歌い出す。

ゼルダシリーズもずっと音楽がいいんだが、2枚組CDになっている風のタクトの全シーンの音楽を最初から聞いたらさすがに飽きた。トリコの音楽は、どのシーンも音楽的で耳に心地よい。木漏れ日の中をトリコが歩いてくるシーンの印象派のような繊細なピアノ、続いて湧き上がる弦楽器の低音の震え。全曲ほめたたえることは余裕でできるが、すでにかなり長くなっているので、全曲素晴らしいと述べるだけにとどめておく。

それから、踏切ジャンプの安全化。ごく限られた場面を除き、足場から足場へジャンプする時、思い切り助走をつけたとしても、縁から落ちることがない。ジャンプボタンを押すまでおっとっと、と待ってくれる。ゼルダが3D化した時に自動ジャンプの導入に踏み切ったが、トリコでは一歩進んで、エッジギリギリで安全に跳べる上、ジャンプのタイミングまでもがユーザーに委ねられている。高所作業の多い少年の仕事は、これで格段に安全になった。

そして同様に高所作業を助けてくれる自動つかまり。トリコに近づくと自動的につかまる。「つかまる」ボタンをうっかり離すと台無しになるので指がしびれるほど必死で押していたワンダと比べると、なんと楽になったことだろう。おかげで、多少反射神経が鈍くても、落ちながら必死でトリコのいる方にキーを入れれば、しがみついて一命を取り留めることも多い。トリコもまた、顔の近くなら口で捕まえてくれる。これは嫌が上にも絆が深まろうというものだ。

さらに、ゲーム歴が無駄に長い僕が驚いた大胆な決断が、時間制限の廃止だ。トリコが前脚だけで脆い足場にかろうじてしがみついている。僕は急いでレバーを操作して格子を開け、トリコを安全な場所に移動できるようにしなければならない。こういう状況が、このゲームではよく起きるが、その際に、普通のゲームなら必ずそうなるであろう「ハイ、時間切れ、残念でした〜」と、のろまな僕のせいで哀れトリコが落下していく結末が用意されていない。どんなに下手くそでも、グズグズしていても、待ってくれる。

これは勇気ある決断だと思う。得てしてゲーム慣れした上手いユーザーは声が大きくて、「簡単すぎる」とか「ゲーム性が乏しい」などと万人向けに設定されたゲームを叩く傾向があるからだ。こういうのは、ゲームのためを思って言っているのではなく、自分が「俺UMEEEE!」と気持ちよくなりたいだけなので、相手にしなくてよい。だが、プライドが傷つくのか何なのか、耳を傾けてしまう制作者は割といるのだよな。上田氏はブレない。一部のコアゲーマーだけではなく、普通の人が、映画を見るようにトリコと旅を最後まで共有して欲しかったのだと思う。そして、そのための配慮を最大限にすることを惜しまなかった。その英断に手が痺れても拍手を送り続けたい。

そう、映画は誰でも結末まで行き着くことができる。手に汗を握って身を乗り出して観ても、ぼーっと雑誌をめくりながらでもエンディングが訪れる。その体験は究極に受け身で、そのインパクトは自然と弱い。だからこそ明かりを落とした劇場で大画面と大音量によって感覚を日常から切り離して作品への没入を促す。ゲームはその点、自分が操作しているので自分の体験として感情移入しやすい。自分の体験なんだから、感じる恐怖や幸福感、衝撃や感動も観るだけの映画とは段違いのものになる。

前述のように「自分の体験」としての感覚を阻害する作業性の強い戦闘や、「こんな入力じゃ普段困るだろう」と突っ込みたくなるような非現実的なパズルなどが排除されたトリコとの冒険は、ゲームを通じて感じられる体験の純度がとても高い。だから楽しいし、どんどん夢中になるし、いつまでも心に残る。辛さ、悲しみも突き刺すように強い。塔の頂きで僕をかばったトリコが他の大鷲にリンチされるところなど、かわいそうで、悔しくて、絞り出すような涙が出た。ゲームでこんな涙が出るのか、と自分でも驚いた。

最後は、お別れも言えない。洗脳が解けて自分が少年をさらってきてしまったことを思い出したトリコは、傷ついてボロボロになりながらも少年を村に返しに行く。トリコは少年のためにそうしたのだろう。少年はずっと気絶していて、トリコを恐れて攻撃する村人たちからトリコを守ることもできない。「違うよ、友達だよ、助けてくれたんだよ」と言えないもどかしさ。そして、2016年のゲームだからネタバレしてもいいと思うから言うが、大好きなトリコに最後のコマンドとして「立ち去れ」と指示しなければならない。身を切るような切なさだ。そして、尾を引く心残りを象徴するように不協和音を含んだ美しいピアノに乗せてスタッフロールが始まる。

文学作品ならここで終わるべきなんだろう。だが、涙に暮れて呆然とスタッフロールを見ている少年たちに、上田氏は敢えてハッピーエンドの後日談を加えてくれた。そのことに深く感謝したい。あのまま終わったら深い葛藤とともに強烈な印象を残すとは思うが、やっぱり悲しすぎるから。映画ならそれでもいいかもしれないが、これは自分の思い出なのだから。

ただ、一つ気がかりなのは、鏡が泥をかぶって打ち捨ててあったように見えることだ。少年は、おっさんになるまで鏡を手に取ったこともなかったのか。いや、そんなはずはない。意識が戻った少年が最初にすることは何だ。まずトリコが心配で探そうとするのではないか。長老があんなこと言うから、近くに落ちてぐったりしているのではないか、と考えるだろう。それなら助けたいし、何より、会いたいだろう。

おそらく鏡は少年がそうすることを恐れた両親が埋めてしまった、とか、あのどさくさでトリコが足の爪で穿った穴に埋まって行方不明になっていたとか、何か理由があるのだろう。敵の正体や巨大な施設の目的、地下に眠る人型が何かなど、全体的に語りすぎを避けている作品なので、それは蛇足になるとの判断だったのかもしれない。だが、多くを語らなくてもいいので、「ザクザク、あれ、これ何?」程度の、「これまで失われていましたよ」と示す何かは欲しかった。少年が薄情で、今の今まで鏡のこともトリコのこともすっかり忘れていた、などという受け取り方を万に一つでもされたら、こんな名作がもったいないから。

一度クリアすると、ウカイヤ勲章がもらえる。少年が木切れで作って自分で色を塗ったような素朴なものから始まって、周回を重ねると豪華になっていく。この勲章の存在のおかげで、現実と虚構の境界が曖昧になり、時に残酷なシナリオを、トリコに会いたさに繰り返すことができる。何度もやっていると親密度が繰り越されるのか、こちらが間合いを飲み込んで来るのか不明だが、絆が深まる気がする。例えば5周目くらいまではアンテナルームや白い塔では絶対に甘えてこなかったが、今は割とどこでも、白い塔の中でも屋上でも甘えてくるようになった。そして、会話ーナデナデのループをエンドレスに続けようとすれば続くことが多い。同じようにやっているつもりでも、トリコの反応が毎回微妙に違うので、今も時々会いに行く。

とにかく、名作だ。今さらだが、これは自分のゲーム日記なので自身の記録のためにもこの記事は書かずにはいられない。ゲームが好きでゲーム歴が無駄に長い自分だが、正直なところゲームでこれほどの「体験」をさせてもらえるとは夢にも思わなかった。あまりにも強烈な記憶として焼き付いているので、年をとってボケてきたら若い頃は大鷲と一緒にウカイヤを冒険した、などと主張し始めそうな気さえする。家族は困るかもしれないが、そうなったら自分は幸せな気もする。

人喰いの大鷲トリコ称賛漫画:アバタもトリコ
今は威嚇している最初のトリコも可愛くしか見えないけどね!

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