僕とサブローちゃんが統計の本になりました!

ホロウナイト漫画日記:クサくて嬉しいお年頃

クソゲーとおバカゲーの定義の記事で、クソゲーが決定的に欠くものとして「愛」を挙げた。でも「愛」なんて大きな言葉一言で言っても漠然としている。具体的にはどういうところに製作者サイドの愛を感じるかというと、美は細部に宿るの言葉のように、丁寧な仕事だろうか。ホロウナイトなら、地味なところではNPCのセリフもその一つ。プログラムも調整も美術も音楽も丁寧に仕上げてあるのはもちろん、会話の作り込みも他に類を見ない細やかさ。

役目の終わったNPCが傷ついたCDのように同じセリフを繰り返すことは、RPGでは珍しくない。主人公が最初の小さな村を出て成長し、空には巨大要塞が浮いていても、まだ畑を荒らすイノシシの愚痴を聞かせられたりする。その人に話しかけてもゲームの進行に影響がないことをそれとなく伝えるための必要悪というかお約束として諦め、受け入れていた。NPCとはそういうものだ、と。だから、ホロウナイトの、状況によって細やかに変化する会話には驚き、感動した。

グリム巡業団が街のそばにテントを張ると、おじいさんがいつもの場所を離れて様子を見に来ているし、地図やのおかみさんから、街の外れの告解師までもが謎の旅芸人を話題に出してくる。神の家の攻略が進むと、引きこもりスイツキが何事かと出てきたりする。そこまでしなくても誰も文句は言わないと思うし、そもそも期待さえしたこともないレベルなんだが、きちんと作り込んである。きっと製作者がこの世界を愛しているので、楽しいのだ、そうやって丁寧に手を入れていくことが。

例えば下記漫画のように、特定のチャームをつけると話が変わったりする。びっくりしたし、嬉しくて我知らずニヤけてしまったよ。暗闇の巣の裏表激しい産婆のババ…おばちゃんも、紡ぐ者の歌をつけていると言うことが変わったっけ。ちゃんと裏も表も変わっていて嬉しい。気付かず終わる人も多いだろう。それでも見えないところもキチンとしているってことは、大きい。それは可能性だから。自分が知らないことがまだまだあるかもしれないと感じさせてくれるから。それは現実において自分が知らないところで世界は常に生きて存在していくのだという感覚と似ているから。

何でもいいから会話がいっぱい用意されていれば良い、と言うのではない。決してない。人々(ホロウナイトでは虫たち)のそれぞれに一貫した性格があり、また生活があり、相互に影響し合う社会がそこにある、と感じさせてくれなければ意味がない。

そうして世界観が確立すると、どうなるか。その世界を救う意味、つまりゲームをプレイする意義がプレイヤーの中で強くなる。ホロウナイトで通常エンドを迎えた時に満足できなかったのも、後のことが心配だったからだ。汚染が井戸から染み出しているのを目にしていたから、いつか自分にもヒビが入流のではないかと不安だった。街の穏やかなじーちゃんや釘の先生たち、新しい幸せを見つけた鍛冶屋のじーさんその他のお世話になった皆が、いつか汚染にさらされるのではないかと、それが嫌だった。それでクサイ物に蓋をするのではなく元から断って安心な世界にしようと真エンドに挑むことにしたのだった。指技が残念かつ根性なしをもって任じる僕を、厳しいと評判の白い宮殿に立ち向かおうと奮起させるほどに強烈な世界観が、そこにはあったのだ。

そして苦労の末についに達成した時、本当にじんわりと沁みるように嬉しかった。自分がどうなったかは語られないが、自分のしたことによって皆がその後平和に暮らせるだろうと思うと、全ての苦労が報われた気がした。高い感情移入があって初めて、高いレベルの達成感、幸福感を味わうことができる。技術面だけでもいいゲームはできる、でも最後は愛なのだと、エンドロールを眺めながら、つくづく思った。

ところで細部といえば、街のベンチの模様のモチーフはじーちゃんの顔だよね?漫画を描こうとして今日しげしげと見るまで気付かなかったよ!愛情こもりまくりスゲー!

ホロウナイト漫画日記:クサくて嬉しいお年頃
ひーっ!気づいてくれた!これがニヤけずにいられようか!

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